なんの世界でも同じですが、華やかな舞台の裏では色んな人たちが汗水垂らしながら縁の下から支えてくれてるもんです。
かのイチローも奥さんが毎日昼食にはカレーを作るそうです。それも毎日。当然人間ですから同じ味では飽きます。入れる具を替え味付けを替えて相当色んな工夫を凝らしてるそうです。
実は私の施術方法や検査法、テクニックも日々変えてるのを患者さんはご存知でしょうか?同じ事をやってるようで実は全く違うことを考えてたりします。何故なら私も人間だからです。機械や器具が検査をし治せるのであればもちろん同じ事をするでしょう。しかし、人が人を診てる以上はそんな単純な規則正しいやり方では効果は出ませんし結果は出ません。生き物ですから、人は。誰一人同じ状態でも来られませんし、同じ体ではありません。細胞単位や遺伝子レベルで見ても、同じ人間なんてありませんからね。
もっと簡単に言えば、だいたい同じような骨の形をし、だいたい同じような内蔵の構造をしてる別々の生き物なんですよ、生物って。これは犬でも魚でも昆虫でも同じ。その個々の人間を、同じ枠に当てはめて診ること自体が実は無理があります。ただし、そんなに極端に構造が違うわけでは無いので「大まかに同じ構造の人間」として診てるだけなんです。ですから回復の度合いは、怪我をした程度にもよりますし、生活様式、年齢、病歴、遺伝子・・・・・と言い出せばきりがありません。それでも何らかのある程度の基準が医学には必要となる。それが所謂、解剖であったり生理であったり、病理などの「だいたいそうであろう」という指標となる学問なんですね。
例えば、何らかの奇形などで心臓が右側にある人が過去に二人おりました。例えば腰椎は5個の骨からなってるのですが、たまに6個あったり逆に4個なんていう人もおります。ただ、多数決ではありませんが、「殆どの人がそうだから」ということで基本形って決まってます。それでも人は一人一人違う。それなのに一律同じ検査をし同じ結果に当てはめようとするほうが無理があると思うんです。かと言って、何も基準がなければどこに向かうかさえ方針が定まらなくなります。そこで重要になってくるのが検査法です。施術の前にきちんと検査をする。そしてその検査に基づいて施術する。施術後は再度検査をし判定をする。これは人を触る者として当たり前の事だし、それさえしない、または出来ないのなら人を触るな!と言いたい。病院でも同じです。血液検査、CT、MRI、レントゲンを先にします。その結果に基づいて治療をし、再度もう一度検査をする。再度おこなった検査に基づいて次の治療方針を決める。この連続です。良くなるまでその連続なんです。でも、この検査法を誤ると、とんでもない治療が始まってします。それを避けるためにも検査は限りなく完璧でなければならない。これが私の信念です。今月から織田先生が一生懸命汗水垂らして私の体を使い検査の勉強をしてます。学生時代の解剖学書を引っ張り出してきて構造の勉強もしてるようです。この舞台裏は患者さんには見えないでしょう。華やかなテクニックばかりを磨いてきた者たちにとっては何のこと?と意味さえ分らないと思います。そんな汗水は患者さんには分らなくてもいいんです。見えないところで汗はかくものです。最後に患者さんの笑顔が見れたらそれでいいんです。